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弁当箱は“ゴミ箱”じゃないのに…

「やったー!やったー!」
満面の笑みを湛えて利用者が厨房に飛び込んできた。
落ち着かせて話を聞くと、HUGくみのスタッフに「今日のお弁当、美味しかったよ」と褒められたらしい。「子どもたちは、唐揚げが好きだから残さずに食べていたわ」。そう言われた利用者は「来週の土曜日も唐揚げにしましょうよ」と興奮冷めやらぬ様子。
就労継続支援B型事業所「どんまい」の開業日は、月曜日から土曜日までの6日間。土曜日だけだけど、僕は厨房に入るようにしている。
この利用者にとって「美味しかったよ」の一言は、琴線に触れる“魔法のことば”となったのだ。
その歩みは緩やかだけど、どんまいの利用者は日々成長している。毎日利用者に寄り添うスタッフに比べ、週に1度しか接していない僕は、その変化を比較的容易に感じ取ることができるのかもしれない。

そして僕は、実践を通して学んだ。
“働くという行為において「経験の蓄積」は、知的レベルを凌駕する”ということを。もちろん職種にもよるが、精神遅滞は、必ずしも“働く”という行為において、ハンディとはならないのだ。豊富な経験を積ませることによって、その可能性は確実に広がるのである。
「働く喜び、喜ばれる感動」を基本的なコンセプトに就労支援を実践してきた“どんまい”のスタッフにとって、この日ほど喜びを感じたことはないだろう。
一方で、利用者を落胆させるのは簡単だ。
 
 ここに1枚の写真がある。

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 地域福祉センターから戻ってきた弁当箱には、このような「ごみ」が度々捨てられている。
 「弁当箱は“ゴミ箱”じゃないのに…」利用者の表情は一変に曇る。
 もはや、利用者にとって食品残渣は、ごみではない。利用者の嗜好を知る上での大切な検証材料となっているのだ。「今日は完食だ」「今日のおかずは残っている」「不味かったのかな…」「お塩が足りなかったのかな…」といった具合に。そして、それがまた、技術の向上、工夫へと繋がっていくのだ。しかし、何に使ったかわからないティッシュは違う。明らかに「ゴミ」なのである。
 利用者が“捨てた”ものなのか、地域福祉センターのスタッフが“捨てた”ものなのかは、わからない。いずれにしてもマナーの欠如は否めない。利用者の暗く沈んだ表情を見ていると僕が恥ずかしくなる。
 少々前置きが長くなってしまったが、僕が言いたかったのは、地域福祉センター職員のモラルの欠如などではない。
 “社協マン”としてのアイデンティティの欠如、つまり、三浦市社会福祉協議会という共同体に対する帰属意識の欠如に他ならない。
 既に100名を超える職員を抱える本会は、時として“お役所”以上に縦割りであったり、セクショナリズムに支配される傾向にある。いわゆる部局割拠主義という奴で、組織内部の各部署が互いに協力し合うことなく、自分たちが保持する権限や利害にこだわり、外部からの干渉を排除しようとする排他的傾向を示すことだ。組織内部の専門性や合理性を追求しすぎた結果起こってくる機能障害である。いささか断定的な物言いになってしまったが、そこまで荒んだ状況ではなかろう。しかし、胸に手をあてて考えてみて欲しい。心当たりはないだろうか?「どんまい」のお弁当を単に民間業者の「仕出し弁当」と混同してはいないだろうか。地域福祉センターの要介護高齢・障害者も、あるいは「どんまい」で訓練する要就労支援者も大切な本会の「利用者」なのである。地域福祉センターにお弁当を届けているのは、トイレの清掃をおこなっているのは、貴方自身の利用者なのだ。昭和の古き良き時代、ある大物歌手が言った。「お客様は神さまです。」と。時代が変わろうとも通底する精神に変わりはない。介護ビジネス(自立支援法の事業も)が市場競争の只中に置かれ、民間企業も社会福祉法人もイコール・フッティングの状況にある今、それぞれの利用者の「自立」にどこまでも真摯に向き合う―それ以外、この市場原理を生き抜く術はない。また、そのことにこそ我々のスキルはある。今こそそれを肝に銘じなければならない。
 もとより「美味しかった」という“ことば”だけが、魔法の言葉なのではない。まずは気に掛けること。「今日のお弁当~したらもっと美味しくなるよ」といった具合に、否定ではなく肯定を導入に諸種の改善に向けたアドバイスをしていくことが大切なのだ。そう、意地悪ではない健全な批判精神に基づいたアドバイスなら、それは当該者の心に必ず届く。心のこもった滋味あふれる“ことば”は、魔法の言葉に成り得るのだ。
 
 
三浦市社会福祉協議会法人運営担当参事 佐藤千徳